80 無名さん
(久方ぶりの休日は、目里にとって貴重な自由時間であった。日頃から勉学と芸能活動に追われている目里にとって、自分が好きに使える時間というのは決して多くはない。スケジュールを調整すれば好きに使える時間が増えるのだろうけれど、舞台の稽古だけでは物足りず、個人的なレッスンも受けている目里には、その時間を減らすことなど考えられもしない。そうこうしているうちに、自分が好きに使える 時間をろくに得ることもできないまま、一ヶ月近くが過ぎてしまった。そこにコロリと転がり込んできたのが今日の休日である。これが平日であったならば、学校へ行かなければならない為に完全な休日とは成り得なかっただろう。しかし、幸いにも世間的に休日と呼ばれる日と、己の休日とが被ったのだ。学校もない、稽古もない、リハーサルや打ち合わせもない。公演も勿論ない。唐突に、突如として与えられた自分が好きに使える時間は、けれども何の計画性も生み出していない為に目里に些細な困惑を与えた。急に自由な時間を与えられてしまっては、何をしていいのかわからない。とりあえずこのまま部屋に篭っているのも肉体的には勿論、精神的にもよくないだろうと踏んで外へと出たのが数十分前のこ とだ。――敷居を跨ぎ、外へ出てみると太陽は頭上高く昇っており、日中の、気温が最も高くなる時分近くであることを言葉なしに教えてくれる。時間帯が時間帯である為か、住宅街からビルが立ち並ぶ街中へと近づくにつれて、すれ違う人々の数も増えてきた。何処へ行くとも決めずに出てきてしまったが故に、行く当てを探さなければならないことに目里は小さな溜息を溢す。マニュアルにない、唐突すぎる物事に対しての臨機応変さに、己は大きく欠ける。これは人生経験が乏しいからなのか、持ち合わせた感性の問題なのか。)………本屋に行こう。(もしかしたら、何かそういった類の物事を扱っている本があるかもしれない。もしもそういった本がなくても、本を読むことは知識を得ることに繋がる。何 もマイナスになどなりはしない―。目里はビルが立ち並ぶ道を、大きな書店が建つ方向へと進み始めた。別段変装などをしていない所為だろうか、すれ違う若い女性が時折こちらを振り返ってはこそこそと話す声も聞こえるけれど、内容までが鼓膜を正確に揺らしてくれているわけではない為に、そこは聞かないふりを決め込んで――、「伊織ー!」そこで不意に、己の名前を呼ぶ声が鼓膜を揺らした。それはあまりにも聞き慣れすぎてしまった、ミュージカル仲間の一人の声にとてもよく似ていた。)……ねえ、ここ街中。俺もキミも、仮にも俳優なんだけど。(振り返って、双眸に相手の顔を捉えたところで大きな溜息を一つ。確かに伊織という名前は珍しくないけれど、それにしたってもう少しやり方があった 筈だ。そこまで言わずとも、顔に微かな不機嫌の色を乗せることで相手に知らせてやる。ミュージカル仲間である彼が目里の微かな表情の変化に気づかないほど鈍いわけではないことくらい、目里自身も知っているのだから。「わりいわりい、でも伊織がこんなとこにいるなんて珍しい。どっかいくの?」しかし大して悪びれた素振りも見せず問いかけてくる彼に、目里は僅かに肩を竦め―、)本屋。キミも行くでしょ?(彼の否応を聞かず、決定事項として目の前に叩きつけた。しかし目里の性分をよく理解してくれている彼は苦い笑みを零しつつ、頭を掻くような素振りを見せるのだ。「仕方ねえなあ、その帰りになんか食おうぜ!」肩を組もうとする彼の腕を押し返しつつ、目里は迷惑をそのまま表情として顔 面に貼り付けたようにして言った。「――…いまダイエット中」その言葉に、彼が大きな声をあげ、ほんの僅かにすれ違う人々の注目を浴びてしまうのは後数分先の、未来――。)