28 無名さん
……っくしゅん!!(ジャージの袖口を引っ張って、タオルの代わりに口に当てる。大きなくしゃみの後に、しゅんしゅんしゅん。湯気を吐き出す薬缶の音がやまびこみたいで恥ずかしかったから、私は顔を隠すようにストーブの火種に視線を落としていた。つららが溶けて落っこちるみたいにつるんと出てきそうな鼻水を我慢していたら、「大丈夫?」って保健室の先生が聞いてくれる。)ふぁ、はいっ!大丈夫です!ありがとうございますっ!(鼻を啜るのと一緒に返事をしたから、詰まって震えて変な声になっちゃう。先生は笑いながら、梅昆布茶が入った湯呑を持ってきてくれた。もう一度お礼を言って湯呑を受け取ると、私はふーふー息を吹きかける。すると、ぽちゃん、と前髪から落ちた水滴が湯呑に吸い込まれていった。──私がずぶ濡れなのは雨が降ったから、じゃなくって、バケツいっぱいのお水を頭から被ったからだ。お掃除の時間、北校舎の玄関を掃いていた私の頭の上から滝みたいにお水が降ってきた。何で?どうして?って二階の窓を見上げたら、そこには教室でお掃除をしていたはずの紅ちゃんが居たんだ。「禊って、汚いものを綺麗にするために頭から水を被るんでしょ?」そう言うと紅ちゃんはお人形さんよりも可愛く笑って、すぐに中へ戻っちゃう。そこに偶然通りかかった先生が、私を保健室へ連れてきてくれたんだ。)髪、早く乾かないかなぁ……。(前髪を摘んで溜息みたいに呟いていると「お家の人に連絡する?」と先生が心配してくれた。でも、私はぷるるるっと首を横に振る。)大丈夫です。綾音ちゃ、えっと、叔母さんも、忙しいから。(本当は、連絡をしたらすぐに飛んできてくれると思う。でもお仕事の締切が近いはずだから、邪魔をしたくなかったんだ。ジャージにも着替えたから一人で帰れます、って気持ちで頬っぺたを持ち上げていると、先生は少し悪戯っぽく目を細くした。「じゃあ彼氏に迎えに来てもらう?」)ぅぇ、えええっ!?い、居ないですよっ!お迎えに来てくれる人なんて!(いきなり聞かれて驚いちゃって、湯呑をぎゅっと握り締めちゃう。掌よりも顔の方がずっとずっと熱くて、顔中から蒸気が出ちゃう気がした。こんな時に助けに来てくれる人が居たらとっても素敵だろうけど、私の場合、居ないんじゃなくて、居ちゃいけない、でもある。それは言えないから──って、そうじゃなくって!)せんせぇ、からかうのは止めて下さいっ!(りんご飴みたいに頬を赤らめて怒ったら、先生は「ごめんごめん」って謝るけど、顔はずっと笑ってるからちょっとひどいと思う。でも、淹れて貰ったお茶みたいに温かい笑顔だったから、良いかなとも思っちゃう。だから私も丁度ぬるくなってきた梅昆布茶を飲んで、先生を許してあげることにするんだ。──喉を通るお茶の温度は雪を溶かすお日様みたい。ほっ、と飛び出した息は目に見えたらきっと梅のつぼみみたいに丸かった。美味しいなぁって瞼をとろんと細めていると「日向ぼっこしてる猫みたいね」って笑われて、少しだけ肩がびっくりして固まっちゃう。ただのたとえ話でも少し心臓に悪かったけど、私は深呼吸をしてからそっと肩の力を抜いて笑った。)先生のお茶が美味しいおかげですっ。ねっ、先生。制服が乾くまで、何かお手伝いは有りませんか?梅昆布茶の恩返しをしたいです!(はいっ、と挙手して尋ねると、先生は変なダジャレを聞いた人みたいに笑っている。冗談じゃないよ、本気の本気。親切にしてもらったお礼をしたいだけなんです、って私はそれからしばらく食い下がる事になるのでした。──それは高校二年生の冬、如月の日。雪が溶ける少し前のお話です。)