もう朝
壁の向こうから聞こえてくる男の低い声が耳障りだ
言葉自体は聞き取れない
だいぶ篭っていて、ぼやけた雑音という感じ
なんだかすごく苛々する

壁のすぐそばで話しているのではないかな
私のベッドが置いてあるのは壁際
私と声の主は多分、壁を挟んで、近いところにいる
今でもそうだ
お母さんは私を愛してくれていると思う
私が死ぬまで会えないけれど
また会えたらその時はお母さんを抱きしめたい
同じように私のことも抱きしめてもらいたい
お母さんはやさしい時はとてもやさしかった
これ以上ないというくらいに

お母さんは感情の波が激しくて
それをあまり自制しない人だったのかもと思う
時々とても怖かったりしたけれど
私のことを本当に愛してくれる唯一の人だった
「しーちゃんが痛い時は、しーちゃんを叩く時は、お母さんのこころも痛いんだよ」
とも言っていたなあ、
懐かしいな、なんだか、
お母さんはその言葉口にする時、いつも涙ぐんでいた
私の体や髪を撫でながら少し泣くこともあった

こんなふうにしてもらっていたのは妹が生まれる前だったような気がする
記憶が定かではないのだけど、多分そうだと思う
私が小学校に通う前だったんじゃないかな、
そういうことを覚える前のことだけど、お母さんがやさしい時もあった
叩かれたあとに私がうずくまって泣いていると
いったんその場を離れたお母さんが私のもとへ戻ってきて抱っこをしてくれることがあった
お母さんは向かい合うかたちで私を膝の上に乗せてくれた
そして「しーちゃん、叩いてごめんね、どこが痛かった?」とやさしく訊いてくれた
ここ、と私が自分の体を触って伝えると
お母さんは「よしよし、痛かったね、ごめんね」と、そこをやさしく撫でてくれた
一カ所目を撫でられる時は、私は毎回、一瞬びくりとした
そしてお母さんが撫でてくれるうちに一気に安堵感が込み上げてきて、大泣きした

「しーちゃんのことが可愛いから、大事だから、お母さんは叩くんだよ
おりこうになって欲しいからだよ
しーちゃんを叩く時はお母さんの手も痛いんだよ
しーちゃんも痛いけど、しーちゃんを叩くお母さんの手はもっと痛いんだよ
しーちゃんのことがどうでもよくて大事じゃなかったら、わざわざ叩かないでしょう?」
お母さんは私を撫でる時、毎回こう言った
私は「うん、うん」と泣きじゃくりながら言った
そうやって私を撫でてくれる時のお母さんのことが私は大好きだった
でもお母さんが叩き終わったあとに
私が何でもなかったようにけろりとしていると
お母さんの気が済まないようだった
それでまた叩かれたこともあった
私はある程度泣いたり悲しんだり弱ったりしないといけないのだということも覚えていった
泣き止まないとお母さんがまた怒るということも覚えた
それからはあまり泣かなくなった
叩かれることにもだんだんと慣れていった
叩かれている最中に、状況とはまったく関係のないことを考えることも出来た
本当に普通に適当なことを考えたり
あたまの中で歌を口ずさんだりもした
痛みもあまり感じなくなった
叩かれながら、いつ終わるのかなあ、まだ終わらないのかなあ、と思うこともあった
泣き疲れて半ば放心状態のような感じで家族を見つめたことが何度もあった
その時はなんだかあまり現実感のない、不思議な感覚に包まれた
何かがすごく遠くて『別々』だと感じた